無題のメルヒェン




      3

 アイリーンは、この森から見える月が好きだった。
 だから夜はいつも、月がきれいに見える場所へ行くことが多い。
 夜露に濡れた草の間を掻き分けていくと、行き慣れた花畑に出た。木々がなく、身を寄せ合っている白い花畑の上空から月の光が差し込んでいる。
 花は月光をたっぷり吸って真っ白に輝いていた。アイリーンは花畑の真ん中に立ち、降り注ぐ月の光を浴びた。冷たい月の光に全身を洗われているようだった。
 アイリーンはしばらくそのまま月を見上げていた。
 ふと、微かに草が揺れ、アイリーンは反射的にそちらの方へ顔を向けた。青白い月光の底に沈んだ森の闇は濃い。その闇の中で、何かが蠢く気配がした。草が揺れて、足音が近付いてくる。
 夜行性の獣だろうか。アイリーンは身を強張らせる。
「…………」
 ぼんやりとした黒い輪郭が月の光の下に現れて、人の姿になった。
 風が吹いて、無数の白い花びらが舞い上がった。
 月の光を背負ったそれは、男の人だった。
 陰になっていて、顔が見えない。上着のフードをかぶっているせいだ。月のように青白いその目と、アイリーンの視線が交わる。
「……よお」
 ぶっきらぼうな低い声色で、彼が言った。
「――会いにきたぜ」
 口が悪くて不器用な彼は、そうして森へやってきた。
 不思議と、初めて会った気がしなかった。


      2

 この森は人気のない森の奥の、更にずっと奥にある。人は滅多に寄りつかない土地だが、それでも時折、この森には人が訪れる。
 この森には昔から、生まれ変わりの言い伝えがあった。この森で死んだ者は生まれ変わり、自分の人生をやり直すことができるのだという。その噂はまことしやかに囁かれ、噂に縋ってやってくる者が何度か森を訪れた。
 アイリーンは森に住んでいる。生まれ変わるために森にきて、結局死なずにそのまま森で暮らしている。そのかわり、アイリーンは仕事をしていた。
 久しぶりに人がこの森を訪れた。アイリーンの仕事は森に人が来なければできない。アイリーンは新しく仕事がきたと張りきっていた。
 森を訪れた男は、アイリーンの前に立って言った。
「……よお。会いにきたぜ」
 生まれ変わりの噂を頼りに森に来た人なのだろうと、アイリーンはひとり得心する。
「……生まれ変わりにきた人ね」
 そう言うと、彼は眉を顰めた。それだけで視線が剣のように鋭い。威圧感のある、怖い顔をする人だとアイリーンは思った。
「ああ? 俺はそんなの知らねえよ」
「この森のことを、知らないできたの?」
「知らねえって。適当に歩いてたら着いただけだ」
 彼は苛立ち混じりにそう言った。この森に、生まれ変わり以外の目的で訪れた人は今までいない。珍しいこともあるものだと思った。
「……つーか、ここら辺に人は住んでるのかよ?」
「いいえ。わたしひとりよ。この森には滅多に人が入らないの」
 彼は心底愉快そうな顔で、にやりと笑った。
「そうか。ならしばらくはここに隠れるか」
 彼はそう言って花畑の中に座り込んだ。お尻を痛めそうな勢いで思いきり座ったせいか、彼の周囲で潰れた花びらが舞った。
 今までこんな人は訪れたことがない。みんな生まれ変わるために、死ぬためにこの森を訪れる。こんなふうに笑った人を見るのは初めてだ。アイリーンは彼がどういう人なのか、好奇心を出して彼の傍に座ろうとした。
 鼻先に、銀色が煌いた。
 彼が、アイリーンに大振りのナイフを突き付けていた。
 だがアイリーンは驚かなかった。ナイフは仕事で見慣れているし、彼が牽制のつもりでナイフを掲げていることはすぐにわかったからだ。
「…………」
「……あんまり寄るな」
 彼の笑みは引っ込んでいた。月のように冷たい目で、アイリーンを睨んでいる。彼女はそろりと後ろへ引いて、少し離れたところに座り込んだ。彼はナイフを引っ込めたが、手に収めたままナイフを仕舞おうとはしなかった。アイリーンを警戒しているのかもしれない。
「……お前、この森に住んでるって言ったな。ここはなんて森だ?」
「森から出たことないから、よく知らない。でも、ここは人の噂ではリンネの森と呼ばれているわ」
「リンネの森……? あー、なんか聞いたことあるような気がするな」
 よく知らねえけど、と彼は付け足した。
「この森で死んだ人は、生まれ変わることができるの。生まれ変わりたい人がたまに森に来るけれど、あなたはそうじゃないの?」
 アイリーンがそう尋ねると、彼は片方の目だけでこちらを見た。
「俺は身を隠す場所を探してただけだ。まあ、人があんまり来ないならちょうどいい。しばらくは大丈夫そうだ」
「……あなた本当に死ぬために来たのではないのね。新しいお仕事かと思っちゃった」
「仕事だあ?」
 彼がこちらを振り向く。青い目が、アイリーンを再び睨んだ。
「お前みたいな小せえ娘が、森でひとり、何してんだよ?」
 彼のその瞳には警戒が強く滲んでいた。
「魔女の仕事よ。森に来た人の、生まれ変わりのお手伝いをするの。みんなが死ぬのを手伝って、わたしが生まれ変わらせてあげるの」
「魔女だと?」
 アイリーンは頷く。
「魔女に呪われた魔女。……わたしはこの森の魔女。みんなのために、わたしがみんなを殺して生まれ変わらせてあげるの」
 そして魔女になることで、アイリーンは昔の自分から生まれ変わったのだ。だからアイリーンは自分が魔女であることを誇らしく思っていた。
「そうかよ」
 彼は興味をなくしたようにそっぽを向いた。
 それから彼が話しかけてくることはなかったし、危害を加えるようなこともしてこなかった。アイリーンはいつも通りそこで月の光を浴びて、そしていつもと同じ時間くらいにその場を後にした。
 帰るときに一度花畑を振り返ると、彼は花畑の中で腕を枕にして寝転んでいた。


      1

 小さい頃のことはよく覚えていない。自分のことで知っていることは、ジョエルには昔から家族はおらず、住む場所もなかったこと。そして、いくつか罪を犯さなければ食い繋ぐことすらできなかったということだけ。
 そのためジョエルは各地を転々とする生活を繰り返した。今更足を洗おうという気にもなれない。今更まっとうになったって、罪は手のひらにこびりついて離れることはない。自分の手には、血のついたナイフがお似合いだ。
 いくつかの町を転々とし、警察から逃れ、どこへ向かっているのかも知らぬうちに深い森に辿りついた。そして月光の下、白い花畑の中に、長い金の髪を流した少女を見つけた。澄んだ目は世俗とは無縁そうに澄んでいて、月のように青白かった。
 少女は、自らを魔女だと言った。

 朝目覚めると、花の甘い香りがした。
 ジョエルが寝ていた花畑には日差しが降り注ぎ、昨晩月の光を吸っていた白い花が日の光に照らされていた。目が慣れるまで少しかかった。身体を起こせば、鬱蒼とした森の姿が視界に入る。夜ほど暗くはないが、それでも日を遮る濃密な木々の下は薄暗そうだった。
 ジョエルは立ち上がり、あてもなく森の中を歩き始めた。適当に歩けば食べられるものくらい見つけられるだろう。ここ最近は長い逃亡生活を送っていたせいもあり、まともなものを食べていない。手の内にナイフを握り、無造作に立つ木々の間を通り抜けていく。
「……あ」
 感情の起伏が薄い声がした。昨夜聞いた覚えがある。森で出会ったあの少女だ。そちらを振り向くと、腕にかけた籠に果物や野菜を積んだ少女が立っていた。長い金の髪と白い肌の少女が、淡い青い瞳でこちらを見つめている。
「……よお、魔女」
 話しかけてみると、少女は薄い表情に少しだけ眉を寄せて不快感を示した。
「……魔女だけど、それはわたしの名前じゃない」
 彼女は子供らしく、柔らかい頬を膨らませた。能面みたいな無表情だと思っていたら、年相応の顔もできるじゃないか、とジョエルは内心思う。ジョエルは少女に向き直った。
「呼んでほしい名前でもあるのかよ」
「――アイリーン」
 少女はぎこちなくだが、少しだけ笑ってそう言った。
 アイリーン。ジョエルは心の中で、少女の名を繰り返した。
「あなたは? なんていうの?」
「……ジョエル」
 おたずね者のジョエルはあまり人に名乗ったことがない。足がつくのを恐れているからだ。しかしこんな森にまで警察は来ないだろうし、この少女がジョエルの罪を知っていて、わざわざ通報するとは思えなかった。
「ジョエル、ごはん、食べた?」
 この女。目の前に食べ物をチラつかせておいて、こっちを煽っているんじゃないだろうな。ジョエルは内心でそう毒づいた。だがアイリーンの目にそうした色はなく、純粋な質問であることはすぐに察しがつく。
「……今探してんだよ」
 面白くないが素直に答えると、アイリーンは籠を見せるように掲げ、小さく笑った。あんまり笑ったことがないのか、やはり表情がぎこちない。今までたったひとりで、こんな森で暮らしていたら仕方ないのかもしれない。人が来ないから笑いかけるような相手がいないのだろう。
「わたしも今から。よかったら一緒に食べよう? あなたの分も作るから」
 ジョエルは言葉に詰まった。昨夜初めて会ったような、どういう奴かもわからない相手に向かって彼女は何を考えているのだろう。
「いつも食べるのはひとりだから、あなたと一緒なら楽しいかも。どう?」
 思わず握りしめた手の中に、使い慣れたナイフの柄の感触が伝わる。
 ――待てよ。もしこいつに家があって、まともな寝床と食べるものがあるなら。
 そういえば彼女は昨夜花畑から去っていった。この森に住んでいるというから家か何かあるのかもしれない。ジョエルは口角が勝手に上がるのを感じた。
 ――こんな小せえ娘、どうにでもできる。しばらくはここに身を隠して、邪魔になるようなら、いつものようにやればいい。
 アイリーンは期待した面持ちでジョエルの返事を待っている。ジョエルは笑った。
「……ああ、いいぜ。食うもの分けてくれるならな」
 アイリーンは顔を僅かに輝かせ、浮足立つような足取りで先頭に立った。こっち、と言いながら先に歩いていく。ジョエルはその後を冷めた目でついていく。彼女の長い金の髪が、軽やかな足取りとともに揺れていた。
 ジョエルは手の内のナイフを強く握った。


      3

 アイリーンの家は、木材を組み立てただけの簡素な家だ。
 以前生まれ変わるために森を訪れた人はこの家を見て「家っていうより小屋じゃない」と言った。アイリーンがここに住んでいるからこれは家だというと、その人は困ったように苦笑いをした。
 薄い毛布を敷いただけの寝床に、少ない食器を置いた棚。小さなキッチン。先代の魔女の持ち物だった古い本や薬。そんなものが小さな家に収まっている。
 ジョエルが怪訝そうな顔をして目の前の料理を見下ろしている。出来立ての料理をテーブルの上に並べてみても、手をつける気配がない。
 森で手に入れたもので作った料理は豪華なものではない。野菜を入れて味付けしたスープに、採りたてを切ったみずみずしいオレンジ。それから以前に捌いておいたお肉を敷いて作った目玉焼き。それらがテーブルの上で湯気を上げたままになっている。
「……食べないの?」
 彼と向かい合わせになったまま、アイリーンは訊いてみた。そんなに変な出来だっただろうか。いつもひとりだから出来の良し悪しが自分ではよく分からない。
「……なんか、見たことねえもん並んでるけどよ。ちゃんと食えるのか?」
「わたしはいつも食べてるけど」
「変なもん……、毒とか入ってねえだろうな?」
 ジョエルは警戒した動物のように、食べ物を眺め回した。
「毒薬は別の場所に保管しているから大丈夫」
「持ってんのかよ!」
「森の魔女のお仕事を引き継いだから。ナイフが嫌な人には、毒を勧めるの」
 ナイフで殺すこともあれば、安楽死がいいと言って、睡眠薬を飲んでから殺してくれるよう頼む人もいる。アイリーンに会わずに崖から飛び降りる人もいた。
 ジョエルは料理をじっと睨んでいる。アイリーンは彼が何故食べるのを渋るのかがわからず、首を傾げるしかない。
「……料理に毒は入れないよ?」
 とりあえず、それだけ言ってみる。それでもジョエルはしきりに料理が大丈夫か気にしているみたいなので、アイリーンは自分の分を一口食べた。目玉焼きはとろとろしているし、お肉もジューシーだ。塩を振りかけるほど味も薄くない。
 アイリーンが食べても何もなかったためか、ジョエルはおそるおそる目玉焼きを一口だけ、口に運んでみる。アイリーンよりずっと背も高く大人なはずなのに、その仕草は嫌いなものを食べる子供みたいだった。ぱくっと食べた瞬間、彼の頬が緩んだ。
「……うまい」
「ほんと?」
 彼は返事もせずに目の前のものを口に運んだ。いや、口の中に掻き込んでいると言ってもいいくらいだった。スープを啜り、オレンジの果肉を溢れる汁とともに貪り、目玉焼きをつるりと一気に口の中に入れる。その食べっぷりの良さにアイリーンは嬉しくなった。こうやって自分の作った料理を「うまい」と言って味わってもらったのは初めてだったからだ。ジョエルの様子を眺めながら、アイリーンも自分の分の朝食に手をつけた。
「……まともなもん食ったの、初めてだ」
 ジョエルは食べ終わってから、満足げに息を吐いた。
「よかった。気に入ってもらえて」
 今まで、アイリーンは最低限食べていくために料理をしていた。だがジョエルがもっと喜んでくれるのなら、もっとたくさん料理を作ってもいい。こんなに心の内が温かくなるのは初めてだ。
「また食べたくなったら、いつでも来てね」
「……ああ。それも悪くねえな」
 ジョエルは屈託なく笑った。ここに来る人は穏やかな人が多い。生きることを諦めているから、笑ったり怒ったりする人がいないのだ。それなのに、怒ったり笑ったり、ジョエルの表情はころころ変わる。死ぬためにここに来たのではないからだ。
 アイリーンは食器を洗って片付けた。その間満腹の余韻に浸っているのか、ジョエルはくつろいだまま動かなかった。この家にすっかり溶け込んでいる。長い時間を、この家で過ごしてきたみたいだ。
 片付けを終えると、アイリーンは出かける準備をした。それをジョエルが呼び止める。
「お前、どっか行くのか?」
「森を見て回るの。もしかしたら迷い込んだ人間がいるかもしれないし。それに、薬草や食材も一緒に見つけられるから」
「毎日そんなことしてんのかよ。暇じゃねえのか?」
「ううん。魔女として過ごせるだけで、十分だから」
 アイリーンがそう言って家の扉に手をかけたとき、背後でジョエルが立ち上がるのが分かった。振り返ると、彼はアイリーンの後ろに立った。
「……俺も行く」
「どうして?」
「暇だからだよ」
 彼はたびたびそうするように、にやりと笑った。
 やっぱりよく笑う人だな、とアイリーンは思った。


      6

 まともに料理されたものなんて食べたことがなかった。だから一口食べて、この世にこんなに美味いものがあるのかと思った。
 それからはもう夢中だった。食べ物の匂いに長年の飢えが刺激されて、ものを咀嚼せずにはいられなかった。食い繋ぐために適当に食べていた自分にどれほど衝撃が走ったか。ジョエルはそれを今でも言い表すことができない。
 アイリーンが森を回るというのでついていくことにした。森には他に誰もいなくて身を隠す必要はないが、その分暇だ。日がな一日ぼうっと座っているのも性に合わない。アイリーンについていけば暇潰しにもなるし、少しは森の地理を覚えられるだろう。
 アイリーンは先頭になって、慣れているらしい道をすいすい進んだ。天気はいいみたいだが、日差しはほとんど木々に遮られて森の中まで入ってこない。少し薄暗いが、周囲が見えないほど暗くはない。
 あちこちで鳥のさえずりが聞こえてくる。昨晩は獣の気配はなかったが、草むらの陰で何かが息を潜める気配も感じる。この森に危険な生き物はいないのだろうか。アイリーンは何も気にせずどんどん進んでいるから、あまり危険はないのかもしれない。
「あ」
 彼女が短く声を発した。何かを見つけたのか、しきりに前方の崖下を覗き込んでいる。ジョエルも彼女の横に立って崖下を見下ろしてみた。さほど高くはないが、落ちて打ち所が悪ければただでは済まないだろう。
 崖下の岩に打ちつけられ、頭から血を飛び散らせた死体があった。うつ伏せの死体を見下ろした後、ジョエルはちらとアイリーンを見やる。
「…………」
 アイリーンは無表情のまま死体を見下ろしていた。彼女は人の死体を見ても涼しい顔をしている。感情が表に出ない性質なのかもしれない。それとも、魔女としての仕事が彼女に死体を慣れさせたのだろうか。
 やがて彼女は道を変えて崖下へと降りていった。ジョエルもとりあえずは彼女についていく。
 アイリーンは死体の傍に歩み寄った。
「……困ったな。死体は重いから運ぶのが大変なのに」
 先程から押し黙って何を考えていたのかと思えば、死体の運搬についてだったとは。
「……そんなもの、運んでどうすんだ?」
 ジョエルは一応訊いてみる。するとアイリーンは北の方を指差した。
「この森の中心。そこに運んで、リンネさせてあげるの。森で死んだだけじゃ、リンネはできないから」
 アイリーンは屈んで、死体をぐいと押して岩から落とした。随分扱いがぞんざいな気がするが、この小柄な少女の身体では、大の男ひとりを背負って移動することができないのだろう。
「そうだ、ジョエル。手伝って」
 アイリーンがジョエルを見上げた。
「あぁ? なんで俺が」
 何で死体なんて運ばなくてはならないのか。ジョエルはここで適当に時を潰せればいいのだ。肉体労働などご免だ。
「晩御飯に美味しいもの作るから」
「…………」
 ジョエルは身体を硬直させ、苦い顔を作った。
「…………」
 卑怯だ。食べ物で人を釣るなんてこの女は卑怯すぎやしないか。アイリーンの言いなりになるのはあまり面白くない。だが、また美味いものが食べられると思うと。
「……人を食い物で使おうとするんじゃねえよ」
 毒づきつつも、結局死体はジョエルが背負って運んでやることにした。
 アイリーンが先を進み、道を示してくれる。流したままの金の髪が、歩くたびに軽やかに揺れた。
 進んだ先には、森のどこよりも巨大な木があった。大人が何人腕を広げればいいのかも一目では見当がつかない。濃密な緑を頭上に頂く木は、僅かに光っているようにさえ見えた。普通の木じゃない、とジョエルは思った。巨木の前には小さな泉がある。普通の泉にしては青すぎるが、底が窺えるほど澄んでいた。
「ジョエル、ここに下ろして」
 アイリーンが泉を指差している。
「いいのかよ。この中で」
 アイリーンが頷くので、ジョエルは言われた通り泉の中に死体を下ろす。死体が飛沫を上げて泉の中に沈んだ。アイリーンはジョエルに「ありがとう」と言ってから、泉に向き直り、何語なのかも分からない変わった言葉を紡いだ。
 さわさわと、巨木が風に揺れた。泉の中で死体が揺らぐ。底に漂う死体はそのままどろどろと溶けて泉と同化していった。
「……これでいいわ」
「おい。これがお前の言う仕事か?」
 泉は死体と同化して墨のように真っ黒な泉になった。これを指差し、ジョエルはアイリーンに尋ねる。彼女はそれがさも当然だと言わんばかりに頷いた。
「そうよ。本当はこの泉の前で死んでもらって、わたしが泉に落とすの」
「魔女だとかいうからなんか特別なことでもするのかと思ったじゃねえか」
 アイリーンは小首を傾げた。
「魔女の魔法を使えるよ。生まれ変わりにもね、特別な魔法の言葉が必要なの」
 先程泉に死体を沈めたとき、彼女は何かを唱えていた。あれが彼女の言う魔法の言葉なのだろう。
「……胡散臭えな」
 ジョエルは素直に言った。するとアイリーンは胸に両手を当てた。
「わたしね、前の魔女に呪われたの。わたしが森で死ぬために来たとき、この森の魔女が優しく迎えてくれた。その後、彼女は生きなさいって言って、呪いをわたしに授けたの。それで魔女になって、わたしはこの仕事を引き継いだ。わたしはもう前のアイリーンじゃない。魔女としてこの森で生まれ変わったのよ」
「…………」
 ジョエルは目の前に立つ少女を見下ろした。
「……今は、もう死にたくねえのか?」
 アイリーンは、いつものぎこちない笑みを浮かべた。
「ええ。今は、わたしは魔女のアイリーン。だから生きていられるの」
 ならば、今の彼女から魔女としての暮らしを奪うことは、殺すことと同義なのだろうか。


      9

 食事のときは必ずジョエルが現れるようになった。最初は用意ができたら呼びに行こうかと思っていたのだが、料理の匂いが森に漂うのか、調理中にジョエルが家にやってくるようになった。
 彼は、アイリーンが作った料理をそれは美味しそうに食べる。少しは凝った料理を、と思って品を変えたり増やしたりもしたけれど、ジョエルはそういう細かいことは気にせず、何でも食べた。食べた後はいつも「うまかった」と言って彼は笑った。アイリーンは目の前で作ったものを、美味しそうに食べてくれる人がいるだけで嬉しかった。つまらなかった料理は、今度は何を作ろう、というわくわくした気持ちで満たされた。
 彼は普段、森で寝泊まりしている。外で寝ていたら寒いと思って「ジョエルもうちで寝ればいいのに。毛布もあるよ」と言ってみた。するとジョエルは睨んでいるのだろうか、苦々しい顔つきになった。口を開きかけたかと思えば閉じ、しばしの間があってから口を開いた。
「……いい。外で寝る」
 ジョエルがどうして外で寝たがるのかはわからなかった。
 アイリーンはいつも森を見て回って食材や薬草を調達し、森に迷い込んだ人がいないかを調べている。そういうとき、ジョエルは決まってアイリーンについてくるようになった。多分森では何もすることがないからだろう。特に猪やウサギを狩るときは助かった。彼は肉料理が好きだから、これらの動物があの料理になると知ってから、積極的に狩りをするようになったのだ。食べられるキノコや野菜や果物を覚えてからは、森で一緒に採ってくれるようにもなった。
「おい、アイリーン」
 こうして名前を呼んでくれるようにもなった。扉の外から声がしたので家を出ると、野ウサギの両耳を掴んだジョエルが立っていた。
「採ってきてやったぜ」
 ずい、とジョエルが野ウサギをアイリーンに突き出す。ぐったりとしたウサギを受け取ってから、アイリーンは笑顔を返した。
「ありがとう、ジョエル。今晩のおかずにするね」
「そりゃ楽しみだ」
 ジョエルも笑顔を返してくれる。前もよく笑う人だと思ったけれど、アイリーンに向けて屈託なく笑うことも増えた。最初は近付いただけでナイフを突き付けられたが、今はそれもない。隣に立っても彼は怒らなくなった。
 最初は口も目つきも悪い人だと思っていたが、彼は結構優しい。森で手を怪我したとき、アイリーンの手に布を巻いて手当してくれたこともある。ちゃんと巻けずにぶかぶかになっていたが、アイリーンはそれをしばらく外さなかった。
 ジョエルはアイリーンの家に入り浸ることも増えた。料理中は部屋でくつろいで、完成はまだかまだかとこちらをちらちら見たりする。それがおかしくて笑ったりすると、彼はアイリーンの頭を乱暴な手つきで、しかし力を籠めずに小突く。
「笑ってんじゃねえよ」
「ふふ、ごめんなさい」
 ジョエルが森に来てどれくらいになるのだろう。彼は一時的に身を隠すために森に滞在すると言っていたが、彼はまだ出ていく気配を見せない。

 アイリーンはその夜、家を出た。この時間、アイリーンはいつもあの花畑に行って月を見る。だがその日は、自然と足が止まった。花畑ではいつもジョエルが寝泊まりしている。彼が寝転がる隣で月の光を浴びるのが最近の日課になっていた。
 そう。ジョエルが隣にいる毎日が普通になっていた。彼と一緒に食事をして、森を回って、笑い合って。それがアイリーンの日常になりつつあった。
 ジョエルはふしぎな人。森に来る人は生まれ変わるためにアイリーンを必要とするが、魔女としての自分を恐れているような目で見てくることもある。だがジョエルは、ぶっきらぼうな言葉遣いで普通に話しかけてきて、普通に触れてくる。
 未来に希望のない、死ぬために来た人の相手と、死体を泉に下ろす仕事。何も変わらない生活。魔女としての暮らしには満足していた。しかし、いつからアイリーンは笑わなくなっていただろう。それなのに、ジョエルが森に来てから冷たい氷が解けていくように、アイリーンは笑うようになった。毎日の料理を楽しめるようになった。アイリーンの頭に触れたジョエルの手が、とても大きくて温かいことを、知ってしまった。
 ジョエルがいつかこの森を去ったら、アイリーンはまたひとりに戻ってしまう。それがとてつもなく怖かった。最近はジョエルが傍にいればいるほど、いつかいなくなってしまうことを予感させられて、辛いばかりだった。
 草が大きく揺れる音がした。
 アイリーンは飛び退きそうになるほど驚いた。暗い森の中から何かがやってくる。
「アイリーン」
 今はもう聞き慣れた、低い声。
「ジョエル……?」
 彼が夜、家に来ることはない。どうしたの、と言おうとして、ジョエルに思いきり腕を引っ張られた。ジョエルは何も言わずにそのまま進んでしまう。
「どうしたの? ねえ……」
 大きな手はとても力強く、アイリーンが振りほどこうとしても微動だにしなかった。森を進んでいくと、通い慣れた花畑に辿りついた。青白い月の光が眩い。
 ジョエルはようやく手を放した。
「……ったく、いつもの時間に来ねえから何かあったのかと思ったじゃねえか」
 こちらを振り向いたジョエルの顔は、陰になっていてよく見えない。
「……心配して、見に来てくれたの?」
「そんなんじゃねえよ」
 小さく舌打ちをするジョエル。心配してくれたわけではなかったらしい。どこか安堵したような、落胆したような、変な気分になった。
「……お前、最近どうかしたのかよ」
 ジョエルはアイリーンの頬を抓んで引っ張った。
「い、いひゃい……! ジョエル……!」
 痛いがちゃんと言えない。彼の手を引き離そうとすると、ぱっと彼は手を放した。
「浮かねえ顔ばっかしやがって……。へらへら笑うのと美味いもん作るくらいしか取柄がねえくせに」
「だって……」
 アイリーンは下を向いた。白い花畑とジョエルの足元が目に入る。
「……ジョエルは、いつか……」
 ぼそりと呟くと、ジョエルは少し屈んでアイリーンに顔を寄せた。
「何だよ?」
 アイリーンは目だけでちらと上を向いた。ジョエルの顔が傍にある。声が震えないように、アイリーンは一言ずつ、声を発した。
「……いつか、この森を、出ていくんでしょう?」
「そりゃいつかはな」
 平然としたジョエルの答えに、胸の奥で何かがずきんと痛んだ。目元に涙が溜まっていくのを感じる。
「けどすぐじゃねえ」
「でもっ……」
 ジョエルの腕が、アイリーンの頭をそっと引き寄せた。ジョエルのお腹に顔が触れるただけで、身体全体がじんわりと温かくなっていく。涙が一筋だけ、零れた。
「アイリーン……」
 ジョエルはそっと手を離し、アイリーンの手を引いてままその場に座り込んだ。アイリーンも腕を引かれるまま、ジョエルの隣に腰を下ろす。
「お前は俺のこと……、俺がどんな奴で今まで何してきたかとか、聞かねえよな」
「? ……聞かないよ。聞いても聞かなくても、目の前にいるジョエルが、わたしの知ってるジョエルだもの」
 ジョエルはアイリーンの頭に自身の頭をもたげてきた。
「……俺は、お前みたいな奴に会ったのは初めてなんだよ」
 ――だから、もうしばらくここにいる。
 ――アイリーン。お前が望んだ数だけ。
 ジョエルはアイリーンにそう囁いた。
 さわさわと、花が弱い風に揺らぐ。冷たい風が頬に心地いいのに、ジョエルから伝わる熱の方がアイリーンには嬉しかった。